2016「おかざき乾じろ POST /UMUM=OCT /OPUS」
2016年4月24日(日)~10月23日(日)
デウス・エクス・マキナあるいは2040年の夢落ち
人間が現在言われるような意識をもったのはせいぜい紀元前2000 年くらいという説があります。それ以来、人間の精神は意識と意識の下(あるいは外)に分割されるようになった。意識の位置する場所が現在であり現実である、とみなされるようになった。その個々の独立した意識を単位に組織されているのが人間の社会であり制度です。政治も経済もそして表現も、この個々人のもつ意識の自己同一性(「わたしはわたしである。」)を前提としている。
俗には2040 年には人工知能が人間を凌駕し、爆発的に進展するといわれています。これは文明の脅威なのか?人間の破滅を意味するのか?
が正確に言えば、これは人間固有の保有物と考えられてきた意識が、獲得でき操作できる、実現しうる、この世界に存在する可能な秩序のうち、わずか数%以下ですらない偶有的であやういケースにすぎないことがはっきりと自覚されることになる事態だと考えていいでしょう。この2040年の段階で人間は自らの身体的、知能的な限界をはっきり思い知ることになる。思い知らされるのは、人間の意識が、ひとつのはかない夢にすぎなかったこと、その夢がもう終わってしまったことを自覚するということです。その自覚を促すもの、(いままでの人間から考えれば)人間の精神を外から把握しているような、見ているような視点がハッキリ現れるということです。比べて、いままでの人間の意識はどんなにボンヤリしていたことか。従来のボンヤリした人間の意識よりもはるかに信憑性と明晰さをもった意識がそこに出現する。機械は機械でなくなり意識をもつということはきっとこういうことです。それが意識である限り、人間に敵対するわけではありません。むしろ人間がもともとその中にあったかのように、いままでのボンヤリはそのハッキリに吸い込まれてしまうのかもしれない。このとき、従来の人間の意識が捉えてきた世界。いままで構築してきたすべての制度、社会秩序、表現形式、はひとつの舞台上の茶番のようにひっくりかえってしまう。ギリシャ演劇でいえば デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)が現れるようにです。人工知能という機械は、このように出現するだろうというわけです。いままで人間の意識が捉えていた世界、つまり人間が住んでいた世界は、この機械の神の掌にすっぽり納まり、玩具のように弄びはじめられてしまうのでしょうか?しかし、たとえばユングは(いやニーチェでも)すでに自覚的でしたが、従来の意識を捨てさりさえすれば、この機械が支配するだろう世界にまで人間の知能や身体を拡張することは簡単な事柄のはずでした。われわれの脳そして身体、個々の人間という個体を超えて、爆発的に拡散しうる力を持っていたことに気づけば。あるいはこの超人的な力こそが、外的な制度によらず、意識の可能性、生死の能力を自治的に運営する能力(自然に備わった力)であったことに気づけば。つまりわれわれはそのようなあらゆる個別の身体や精神を超えた、はるかに充実した無尽蔵の広がりをもつ物質=自然に根ざした判断力をもっていることに目覚めれば、そのとき人間はデウス・エクス・マキナ そのものになれるということを。
「デウス・エクス・マキナあるいは2040 年の夢落ち」
と、来るべき事態をこう呼んでおきましょう。かつて精神を束ねていたという意識がたくさんの情報の糸を撚って編まれた太い紐のようなものであったとするならば、これをほぐして拡げていったとしても、つまり挙げ句に、どこにも中心がなくなっても、精神はまだ遍在的に成立するともいえるでしょう。かつてはむしろそうであった。同じく、かつての作品が情報を撚ってひとつの中心軸を編み上げていうようなものだと考えられていたのだとすれば、これを解きほぐし空間化していき、やがて、この編み目の間の空隙が(もはや個々の糸が見えないくらいに)拡張し、ほとんど非知覚化、非物質化してしまったとしても、その作品のメディウムとしての真価はむしろ、以前よりもハッキリと現れてくるはずです。メディウムとはその媒介性(関数性)によって物質が凌駕されることだからです。いや物質はこのそもそも見えない数えきれない機能によって、把握されるそれ自体は不可視な何かであったはずだからです。きっと心配には及びません。
おかざき乾じろ
おかざき乾じろ 1955 年東京生まれ。造形作家、批評家。1982 年パリ・ビエンナーレ招聘以来、数多くの国際展に出品。1994 年からの地域再生計画「灰塚アースワーク・プロジェクト」では美術領域の表現を越えて建築および景観設計行う。2002 年セゾン現代美術館にて個展。同年「ヴェネツィア・ビエンナーレ第 8 回建築展」(日本館ディレクター)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど、つねに先鋭的な芸術活動を展開し、近畿大学国際人文科学研究所の活動の一環として主任ディレクターを務めた四谷アート・ステュディウムは、新しい教育・創造活動の拠点として注目された。現Post Studium ディレクター。












